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今から822年前、寿永4年(1185年)3月24日(旧暦)のことでした。源氏と平氏の戦いの最後を飾る壇ノ浦の船合戦が関門海峡で華々しく行われました。源氏の軍船八百余艘に対し平氏の軍船は五百層ばかりでした。ただし平氏は御歳わずか8歳の安徳天皇を御座船にお乗せして、まさに決死の覚悟です。
 しかし4時間にわたる戦いは源義経の作戦が勝利をもたらし平氏は敗れました。二位の尼(平清盛公夫人・安徳天皇御祖母)はもはやこれまでと覚悟を決め、安徳天皇を胸に抱き、「波の底にも都がございますよ」と天皇に申し上げてご一緒に関門の海底深く沈んで行かれました。平氏の公達やさむらい、女官たちもあとに続きました。
 やがて安徳天皇を弔うために紅石山のふもとに御陵が造られ、阿弥陀寺というお寺も建てられました。(現赤間神宮の境内)そしてご命日の3月24日(旧暦)には心をこめた法要が盛大に行われるようになりました。これが先帝の法要と言われ先帝祭の源です。
 ところが、いつのころか先帝の法要のあと、阿弥陀寺の安徳天皇御陵前に平氏の残党と見られるさむらいや女たちの一群がひそかにお参りをするようになりました。その中にはかつて壇ノ浦に平氏滅亡のとき、安徳天皇の御なきがらを海中より拾い上げてとむらうとともに、山中に立て籠もって平氏の再興をはかろうとしたものの果たさず、今は漁業を営む中島四郎太夫正則というさむらいも居りました。また女たちはもともと平氏の女官で源氏の目を逃れながら生活のため馴れない花売りに身をやつしているということでした。いづれも貧しい身なりながら誇り高く手厚いお参りに多くの人々の涙をさそいました。
これが上臈参拝の源です。(今は5月3日に行われます)
明治維新以後、阿弥陀寺は赤間神宮に、先帝の法会は先帝祭に変わりましたが安徳天皇をとむらい、滅亡した平氏一門を偲ぶ心は八百年以上にわたり変わることなく受け継がれてまいりました。官女に警固、稚児が従い、上臈に禿の随う美しい列立は宮中に行われる五節舞姫の形に基づくとされ、龍宮造りの御殿に映える絢爛豪華な外八文字・上臈参拝の絵巻ははるかな時を越えて源平の歴史を今に伝えて西日本随一の行事とたたえられています。
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